「デルクイ」を探す、天性のバランサー! 鏡晋吾

渋谷新聞・原宿表参道新聞副代表。一級建築士。「人と人」をつなぐ媒介者。さらに、渋谷新聞の編集長である鏡理吾のお父さん。長年気になる存在でもあり、多くの肩書きを持つ鏡晋吾(シンゴスター)に私、あみんちゅが迫ります!

好きな勉強ができる! 楽しい大学時代

ーーどんな学生でしたか?

神戸市出身で、中学・高校は兵庫県にある私立の進学校に通っていました。ですが高校時代は本当に何もしていなくて、通学中に疲れて、サボる。また、みんな私服の中、1人だけ制服を着て行く。そんな、少し変わった高校生活を送っている中でも、「大きな建物を作りたい」という夢が何となくありました。その原点は、中学生の頃にできた瀬戸大橋です。四国と本州が橋でつながる。コマーシャルで見た「地図に残る仕事」というフレーズに感銘を受けたのです。

もう一つ、大きなターニングポイントとなったのが、高校3年生の時に起きた阪神淡路大震災です。家が全壊し、大好きな神戸の街は一瞬にして一変しました。街を直したい。街をつくるとはどういうことなんだろう?そんなことを考える中で、建築の道を志すようになりました。

▲震災直後の様子

ーー大学生活は楽しかったですか?

1年の浪人生活を経て、東京理科大学建築学科に入学しました。高校時代とは対照的に、大学ではめちゃくちゃ勉強しましたね。それはサボると留年しちゃうのが当たり前だったということもありますが、それ以上に、憧れの東京で、好きな建築を学べるということが大きかったです。大学・大学院と建築をめちゃくちゃ学んで、仲間たちと一緒に「街」をテーマに色んなコンペに出たりと、とても充実した学生生活でした。

学び続けるシンゴスター

大学4年時の1999年に渋谷センター街の入口にQFRONTができて、それを手がけた浜野安宏さんの「建築プロデューサー」という本を読んだのがきっかけで、建築をプロデュースするという仕事を知りました。

大学の卒業設計は宮下公園の敷地をテーマに、若者に発表の場を提供し、埋もれた才能を発掘・育成・発信していくというコンセプトの設計をしました。今思えばその頃考えていたことと今こうして渋谷で仕事していることがリンクしてますね。

▲卒業設計のコンセプト

そして、大学院修了後に森ビルに就職しました。東急は落ちました笑。森ビルには8年近く勤めて、その後スタートアップ企業に転職し、日本全国の地域原料を活用した化粧品・食品の企画やカフェの運営などをしました。その頃から全国の地域に興味を持ち始めました。

でも、やっぱり自分で起業したい、独立したいという気持ちが募り始めたとき、もう一度学び直そうと思いました。一般的にはMBAなどに行くことが多いんですが、ちょっと変わった校風に惹かれ、事業構想大学院大学に入学しました。

ーーどのような経緯で独立したのですか?

大きく社会が変わるタイミングが絶対あるから、その時、すぐに動けるよう常に身も心も軽くしたほうがいい。これはずっと理吾にも言っていたことです。息子に言っているのに、自分が動かないのはおかしいので、コロナ渦の2021年1月に独立しました。いきなり自分で会社を立ち上げるのではなく、まずはフリーランスのような形で始めました。コロナ渦の前から、色々な人と会っていたので人との繋がりは多かったです。そのような中で、大輔さん(鈴木大輔)と出会い、渋谷新聞を始めることにしました。

カメラを通して俯瞰する

ーー熱中していることや趣味はありますか?

唯一の趣味ともいえるのは写真くらい。写真を撮ることは、1人になれる時間で結構大事にしています。街で暮らしていると、色々な人の影響を受け、自分自身を見失いそうになることがあります。俯瞰して自分のことを見るため、1人になってリセットする時間は絶対作りたいと思っています。その時にいいのが、写真を撮ること。ファインダー越しに街を覗くと、スクリーンの中に自分が入っている感覚になって、街と同時に自分自身を俯瞰することができます。その時の自分が自分では無くなるような感覚が好きで、普段からカメラ片手にブラブラしては、写真をパシャパシャ撮っています。

写真を始めたのは大学生の頃。写真部に所属していたので、フィルムカメラで撮って暗室で現像するなんてこともやっていました。その頃からよく渋谷には来ていました。パルコブックセンターやパルコギャラリーにアートを観に行ったり、兄と一緒に、レコファンで中古CDを見漁ったり、スペイン坂にあったミニシアター シネマライズで映画を観たり…この写真は、この頃シスコ坂で兄に撮られた写真ですね。

▲「シスコ坂」にて、お兄さんが撮影した写真(大学生当時)

▲同場所にて理吾が撮影

天性のバランサー兼「デルクイ」をみつける媒介者

ーーAB型、三兄弟の次男、さらにてんびん座。バランサーであるシンゴスターのバランサーエピソードや、人生におけるモットーはありますか?

自己と他者、そして社会。この関係性を何となくずっと考えています。今、あみんちゅとこうして話をしている時間もお互いに影響を与えあっている。この1対1の関係が社会との関係にも繋がっていくと思っています。「社会を変えたい、世の中を良くしたい」というのももちろんあります。でも、大きなことを1人の人間がやることは難しいと思います。それがバランサーにも繋がるのですが、僕はすごい身近な人の1人をちょっとでも動かすような存在でありたいです。

ーー「デルクイ」とは何ですか?

僕は、「デルクイ」という言葉を大切にしています。自ら進んで「出る杭」になって、自己のやりたいことを実現しようと挑戦している人を「デルクイ」と呼んでいます。例えば、渋谷のデルクイは大輔さんだと思っていて、大輔さんのように社会を変えていく人は必ずいます。私自身も「デルクイ」になりたいと思っているのに、一歩踏み出せない人生を送ってきました。であれば、デルクイをプロデュースして私自身もデルクイになってやろうと思ったわけです。

ーーよく地方に行かれているイメージがあります。

よく地方に行くのは、人と人を繋げたいということが一番大きいです。地方の良さ、都市の良さがあります。渋谷も1つの地域だと思っています。それぞれの地域に特有の良さがあります。また、元気な地域には必ず1人は「デルクイ」がいます。でも、そのデルクイは他の地域との繋がりが少なかったり、孤独を感じていることもある。僕はその媒介者であり、繋げていく人になりたいと思っています。色々な地域に行き、色々な人に会い、その地域や人々の良さを伝えていく。加えて、客観的に見ることのできる存在が必ず必要です。僕は色んな地域を見てるから、冷静な目で渋谷を見つつ、渋谷への愛はすごい持っているので、客観的な視点を伝えていく重要な役割を担えるのではないかと思います。

シンゴスターの夢

ーー渋谷新聞への思いを教えてください。

大輔さんと一緒に立ち上げたメンバーでもあるので、思いは人一倍強いですし、今後もずっと関わって行きたいと思っています。また、もっと多くの人に読んでほしいです。とはいえ、自分自身が真面目なかたい人間ということもあり、同じように渋谷新聞もまだ真面目なメディアだと思います。これだけ多くの個性的な学生ライターがいるから、もっとみんなの個性を爆発させるようなメディアにしてほしい。どんどん壊していってほしい。そんなことを思っています。また、渋谷新聞のようなメディアを日本中に広めたいです。色々な地域を訪れ、渋谷新聞の話をすると、「うちでもやってほしい!」とよく言ってもらえます。でも、そんなに簡単にできることではない。だから、そのノウハウや、ローカルメディアについてこの1年研究したいと思っています。渋谷新聞という1つの事例を体系的にまとめて、全国に広げていきたいです。

ーー最後にシンゴスターの将来の夢を教えてください。

自分は20代のキラキラ起業家のようにはなれないけど、常に新しいことに取り組み、変わり続けることはできます。44歳の時に独立して、今年で48歳。我々の年代は、家族を持ったり、住宅ローンを抱えているとか、仕事のこと、様々なしがらみがあったとしても、いくつになっても変わることはできる。そんなことを同世代や、高校の友人など、少しだけでも影響を与えられる存在になれたらいいなと思います。

ーー編集後記
あみんちゅが高校1年生(現在大学1年生)の頃から関わりのあるシンゴスター。長い付き合いではあるけれど、あまり深くは知りませんでした。今回の取材を通し、堅実さ、変身欲望、好奇心、未来の話まで、たくさんのシンゴスターの側面を知ることができました。渋谷新聞のファッショニスタでもあり、温厚でゆったりとした性格でみんなのことをいつも救ってくれる鏡晋吾のことを多くの方に知っていただけるような記事となることを願って、世界。

◾️鏡 晋吾
兵庫県神戸市出身。大学・大学院で建築学を専攻し、2002年森ビル株式会社入社。建築設計、企業広報等を担当。
2010年より、株式会社ビーバイ・イーに参加し、国産原料を用いた化粧品・食品の商品開発や、オーガニックカフェの運営を務める。並行して、地方の人材育成、地域ブランディングを行うNPO法人まちづくりGIFTの理事を務める。
2020年、事業構想大学院大学に入学、2022年修了。在学中の2021年に起業し、自身の構想計画である地域で挑戦する人「デルクイ」を育成していく事業「デルクイ総合研究所」を立ち上げる。

渋谷新聞・原宿表参道新聞 副代表
一般社団法人渋谷区SDGs協会 事務局長
株式会社デルクイ総合研究所 代表取締役
事業構想大学院大学 客員教授
株式会社078 取締役・地域共創推進部長

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