大正時代から戦後にかけてたくさんの料亭が立ち並び、芸者が行き交う街だった円山町。円山町にある数少ない料亭のひとつ「料亭三長」で日本の伝統芸を学ぶ公演会が定期開催されるというので参加しました。記念すべき1回目が開催されたのは7月6日。落語家の金原亭馬生(きんげんてい ばしょう)さん、常磐津節の常磐津和英太夫(ときわづ わえいだゆう )さんのお話を中心にお届けします。
明治から続く三長を次世代に残すということ
料亭三長、3代目の高橋さんから今回の公演会開催に至った経緯をお話いただきました。
「現在の建物ができて料亭として創業したのが1951年。今年で74年になります。三長の始まりは明治45年に祖母が始めた芝居小屋。大正から昭和の初めには渋谷劇場という芝居小屋兼映画館になり、その隣に三長料理店を作った流れで今の料亭になりました。私が引き継いだ当初は実はサラリーマンをやっていたのですが、周りの料亭が取り壊されていくのがもったいないと思って、ここを一部の人のための料亭ではなく、芝居小屋のようにオープンにして伝統的な芸を楽しんでもらうような場にしていきたいと考えました」
※過去に高橋さんに取材した記事はこちら
続いてこの公演の主催者『日本の”和”芸に親しむ会』の方からはこの公演の目的を話していただきました。
「日本の伝統芸を知ってもらうことを目的に活動していますが、例えばここの料亭三長がなかったら、いくらこの円山町が江戸時代から栄えた宿場町で、明治時代には伝統芸能が繁栄した風雅な場所だと申し上げてもイメージができないと思います。
というわけで、この伝統芸能を育んできた場の歴史と文化を知って、そこで行われてきた伝統芸能を鑑賞をして欲しいと思って活動しています。それでは鑑賞の前にまずは建物探訪に行ってらっしゃいませ」
料亭三長は本館と別館がL字型に建っています。建物の一部は「割烹三長」という個室割烹、「円山町わだつみ」という蕎麦屋、「Lounge BAR Nights」として利用されています。
そして敷地に建っている「道玄坂地蔵尊」は1706年建立で300年以上この地域を守ってきました。
建物の構造は入り組んでいてとても複雑。お客様同士がばったり会わないように配慮された作りだとか。細かく分けられた各部屋もとても凝った作り。天井や建具などに当時の大工のこだわりが見られます。
伝統芸能を堪能
落語家の金原亭馬生(きんげんてい ばしょう)さん、常磐津節の常磐津和英太夫さんの公演の前にお二人からお話がありました。
様々な場所で公演されるお二人でも、この料亭三長のつくりは見事な建築でびっくりしたとか。古い木造の建物や新しい作りの建物を比較すると不思議と古い会場の方が音の響きが良いと言います。この日もお二人はマイクを使わずにお話をされていましたがとても心地よい声が響いていました。
演目の一つ目は常磐津和英太夫さんと三味線の演奏です。
「三味線が入ってきたのは、歌舞伎が始まるより前。一般的に言われているのが、1570年ぐらい、江戸時代が始まる30年ぐらい前に、琉球経由で大阪の堺に入ってきたんだろうと言われております。こうするうちに1603年に歌舞伎というのが始まりました。
最初の歌舞伎に三味線は入っていないんです。だんだん庶民にその三味線の音色が広まって、これはとても心誘われる。そしてこれを舞台に使おうとする流れができました。そして巷の人たちもこれをお稽古することによって、三味線というのが広がり各地にいろんな浄瑠璃という語り物の流派ができます。その中で最も有名なのが、大阪にできた義太夫というものです。義太夫は「音曲の司」と呼ばれています。常磐津は京都から名古屋に伝わり江戸に広がっていきました」
続いて金原亭馬生さんから「唐茄子屋政談(とうなすやせいだん)」という落語を披露いただきました。
落語のあとはお茶とお茶菓子をいただきながら、落語の由来や歴史、言葉遣いの解説もありました。
今後は毎月こちらの料亭三長で伝統芸を楽しむイベントが開催される予定です。詳しくはHPをご覧ください。
日本の”和”芸に親しむ会 https://nihonwagei.wordpress.com/
◾️金原亭馬生
中央区銀座出身。1969年3月、10代目金原亭馬生に入門。
1999年11代目「金原亭馬生」を襲名。落語協会常任理事。
◾️常磐津和英太夫
鈴木英一。1964年生、早稲田大学大学院博士課程満期退学。歌舞伎研究家。研究成果を活かした創作活動も行う。伝承ホール寺子屋プロデューサー。