「昭和31年、ここで生まれました」変化する渋谷の街と共に生きるSHIBUYA nob オーナー猪鼻伸吾さん

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東急Bunkamura向かって左のラーメン屋さんの角を曲がるとすぐに見えるのは長い歴史を持ちアットホームな雰囲気のライブハウス SHIBUYA nob。今回は、ドラマーでSHIBUYA nobのオーナーをされている猪鼻伸吾さんにお話を伺いました。

渋谷生まれ、渋谷育ち

ーー渋谷との出会いを教えてください
「渋谷で生まれ、渋谷区立大向小学校(現:神南小学校)を卒業し、渋谷区立松濤中学校を卒業しました。祖父が渋谷・宇田川町で質屋をやっていたのですが戦争で街がめちゃくちゃになってしまい、円山町に引っ越してきました。円山町でもしばらく質屋をやっていたのですが。戦争から帰ってきた父は質屋を継がなかったんですよね。父が何をやっていたのか、私も私の兄も知らないんですよ(笑)」

「なので私が3代目になります。私の家系は明治時代から渋谷にあるようです。私の奥さんも渋谷出身で、センター街にあった「こけし」というお好み焼き屋さんが実家です。現在センター街のドトールがあるところにお店があって、1階と2階がお店で3階が自宅という3階建ての建物が当時珍しかったらしく、よく取材が来たそうですよ」

ーー奥様との出会いはなんですか?
「SHIBUYA nobにお客さんとして来てくれたことがきっかけです。22歳の時にオープンして今年で46年になります。妻とは6学年離れているのですが、間に入ってくれる人がいたり、地元が一緒で親同士が知り合いだったこともあり一緒になるのが楽でしたね」

昔のお写真を見せていただきました

ーーどんな学生時代だったのですか?
「中学を卒業した後は、日体大の付属の高校に行きました。スキーをやっていたのでそのまま日体大に行くか、音楽もやっていたので音楽をやるか迷って音楽を選びました。大学は日本大学に行き、大学在学中にデビューしました。4人組アイドルバンドをドラマーとしてやっていました。バンド名は「メイベリン」。アメリカの有名なロックンローラーであるチャック・ベリーのデビュー曲から取りました」

「デビューしたのが20歳で、お店(SHIBUYA nob)ができたのが22歳なんですよ。音楽活動を3年くらいやっていたので在学中大学は全然行ってませんでした。結構忙しかったので大学出るのに6年かかりました」

長年渋谷で愛されているライブハウス

ーーお店を作ったきっかけはなんですか?
「高校時代から地下にコンクリート打ちっぱなしの部屋があることは知っていたのですが、21歳の時に急に工事が始まって、父に聞いたら店を作っていると。そうなんだと思っていたらお前がやるんだよと言われました。というのも、父の義理の弟がレストラン西武で働いていたが定年で退職しなくてはならなくなってしまったから、いずれは伸吾さんに継ぐという形で店をやらせてくれないか、という話だったようです。私は全然知らなかったんですけどね」

「いざ行ってオープンしてみたら結構立派なお店でした。今と内装は違うのですが、叔父さんが支配人でレストラン形式でしたので全然音楽重視ではなかったですね」

「お店が開店した頃、テレビなどに出て活躍していたんでドラムをお店に飾っていたんです。そうしたらお客さんが来てくれて、お酒の余興のような感じでよくドラムをやらされたんですよ。そんなことしてると友達が来て、ギターを持ってくるようになりアンプを持ってくるようになり、ライブができるようになりました。ライブができるパーティースペースとしてホットペッパーに載せたらお客さんが殺到しました」

「SHIBUYA nob のnobは伸吾の伸から取りました。兄か父の提案で覚えやすいからnobになりました」

ーー伸吾さんにとってSHIBUYA nobはどういう場所ですか?
「ここで生まれ育ってますから、ここで死ぬんじゃないかなと思っています。ここで始まりここで終わるみたいな感じですね。あと4年で50年なので、50周年は盛大にやりたいと思います」

「思い出はたくさんありますね。矢沢永吉さんも来ましたし。最近若い子たちはダンスにいっちゃうのか、nobを利用してくれる人も40代以降が多いですね」

ーー当時円山町あたりはレストランなどが多かったのですか?
「当時は花街でした。芸者さんが多くいたので、若者は全然来ていなかったです。クラブなどができたのもここ20年くらいですからね。なので少し雰囲気が悪かったです。センター街も暗い純喫茶が多かったですね」

「1番変わったのは渋谷の街ですね。長く住んでいますが、駅の方にいくと私も迷ってしまいますから(笑)それと本当に人が多いですね。ここまで発展してしまうとこの先どうなっちゃうんだろうと思いますね。変わりすぎても寂しいですね」

ーーそれでもここに居続ける理由は何ですか?
「お店を使ってくれたり、自宅にあるスタジオを使ってくれる人がいるからですね。スタジオを持っているのですが、使いたい人は無料で貸しています。自分たちもそこで練習していますしね。最後にやろうとしたら音楽しかないので」

「最近はプロデュースもしています。育っていくのを見るのは面白いですね。プレイヤーもそろそろ卒業してもいいのですが上手なんですよ(笑)デビュー当時より技術も上手くなっていますね」

伸吾さんにとっての”渋谷”

右:店長の小林涼さん

ーー渋谷はどんな街ですか?
「昔は庶民的でしたよ。商店街がありましたし、近所の人とのふれあいが結構あったんですよ。近所同士の付き合いが本当によかったので、今はとても寂しいです」

「昔の面影もほとんどなくなってしまっていますね。ヤマダ電機 LABIのところに恋文横丁というものがあったんですよ。小さなお店がたくさんあって、北島三郎さんもギターを持って歩いていました

ーー渋谷は昔から音楽が盛んだったのですか?
「いえそうでもないです。新宿には敵わないですね。今でさえ円山町は若者が集う街となっていますがclubasia(クラブエイジア)というクラブが1番最初にできて、それも1996年のオープンですからね。そこから雰囲気を良くしていこうということで音楽のメッカにしていく動きが出てクラブやライブハウスができるようになりました」

ーー渋谷の好きなところはありますか?
「駅の方はあまり好きなところがないですね(笑)松濤にある鍋島松濤公園が好きですね。トイレがすごく綺麗になったのですが、あの池は掃除しなきゃだめだね

ーー課題はありますか?
「人が本当に多いので、騒音や不法投棄がひどいですね。商業的には良くなったかもしれませんが、住民からするとやっぱり苦しいところはありますね。ただ円山町でいうと芸者街というイメージが払拭されたのは良かったことかもしれないですね。小学生や中学生の頃は行っちゃいけないエリアだったので。若者が増えるのは良いことなのですがもう少しモラルがあると嬉しいですね」

伸吾さんの記憶から辿る渋谷は、私たちの知らない渋谷ばかりでした。渋谷で生まれ育ち、今もこれからも渋谷で生活し続ける猪鼻さん。お店を利用してくれるお客さん、渋谷を訪れる若者、すべての渋谷に関わる人へ思いを語ってくださいました。ぜひ、伸吾さんに会いにSHIBUYA nobへ訪れてみてください!

◾️猪鼻伸吾
昭和31年3月25日生まれ。渋谷区出身。 SHIBUYA nob 初代オーナー。大学在学中4人組アイドルバンド「メインベリン」のドラマーとしてデビュー。1972年から1979年に放送されていたTBS『ぎんざNOW!』の木曜レギュラーで出演。現在もSHIBUYA nobの上にある自宅で暮らしている。

◾️SHIBUYA nob
渋谷区円山町1-3 猪鼻ビル B1F https://shibuyanob.jp/

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