“渋谷はWAGAMAMAにあれる場所” Rebolt inc. 共同代表 下山田志帆さん / 内山穂南さん

渋谷駅近くにある実験区「100BANCH(ヒャクバンチ)」に株式会社Rebolt(レボルト)は拠点を構えています。
サッカーを通じて様々な経験をしてきた下山田志帆さんと内山穂南さんがReboltを2019年に設立。D2C事業「OPT」に始まり、この5月には未来創造型スポーツクラブ「OPT UNITED」を発足しました。
わがままであることを肯定し、社会を変えるべく前進を続けるReboltの創業者であるお二人にこれまでのサッカー人生やレボルト創業の背景、今後の展望をSHIBUYA CITY FCの畑間直英がお聞きしました。

 

美談では終わらない。共に過ごした高校3年間

ーーまず、お二人のサッカー人生の始まりについて教えてください

下山田志帆さん(以下、下山田):
仲の良い友だちが小学校の休み時間にサッカーをしていて、それに誘ってもらったのがサッカーを始めたきっかけでした。
当時、自分はかっこいいものが好きだったのですが、女子だから可愛いものを与えられたり、ちょっと汚い言葉を使ったら怒られたり、「自分がこうありたい」と思っていることをかなり否定されている時期でした。でも、サッカーをやっているときは、荒っぽい言動でもスポーツの中で起きていることとして受け入れられる。そういう感覚がとても楽しくて、どんどんのめり込んでいきました。
出身が茨城県なので、茨城のクラブチームに中学生まで所属して、高校は十文字高等学校に進学しました。

 

内山穂南さん(以下、内山):
私は、出身が埼玉で、浦和レッズや大宮アルディージャといったJリーグクラブがあるため身近にサッカーがありました。自然と小学生の時にサッカーを始めて、サッカーの強豪と言われていた十文字中学校に進学、そのまま十文字高等学校へ、という流れです。
よく覚えているのが、中学の進路先を決めた時に、当時の担任の先生に伝えたら、そこで本当に大丈夫?って心配されたんです。でも私としてはサッカーの強い学校に行きたくて、いざ入学したら制服がセーラー服だったんです。当時は短髪で、スカートなんて履かないし、セーラー服なんて着るタイプでもなかったのでもどかしさもありましたが、「サッカーをやるためだ」と言い聞かせてその環境に適応していきました。

 

ーー高校でお二人は出会い、3年間を過ごすことになります。印象に残っていることはありますか

下山田:
特段、内山と仲が良かった訳ではないんですよ。別に仲が悪い訳でもない。高校時代はしょうがないから同じ机でお弁当を食べるくらいの距離感でした。
サッカー面で言うと、一番監督から怒られていたのが私だったと思います。2年生からスタメンで使ってもらっていたのですが、スタメンの中でも一番怒られていました。

 

内山:
十文字はとにかく上下関係が厳しくて、顧問の先生も厳しいという印象が強く残ってます。挨拶の仕方から、先輩の荷物持ちまで、サッカーをプレーするために全てを受け入れて日々生活してましたね。その中でも私は怪我の期間が長くて、試合にもあまり絡むことができませんでした。

 

下山田:
成績は、2年生の時に全国3位、3年生の時にベスト16という結果でした。自分自身のレベルが上がったというよりは「全国に行くチームはこういうチーム」ということを知れたことが大きな経験だったかなと今振り返ると思います。

 

内山:
あの時の経験を美談にはしたくないなと、冷静に振り返ると思ったりもします。理不尽なこともあったし、パワーバランス的に言い返せないことも多々ありました。だからこそ、自分が子どもにサッカーを指導する機会がある時は、サッカーが楽しいって思ってもらえるような声掛けを意識しています。
高校時代って、なんでもがむしゃらに取り組むので、「思い出」「青春」って考えがちですけど、そうでない面もたくさんあるなと思っています。

 

下山田:
高校・大学でサッカーを辞めてしまう人はたくさんいるので、良く見えるのはほんの一握りの人たちなんだなということを認識することはとても重要なことだと思っています。

 

それぞれ別のサッカー人生へ、早慶大学時代〜海外での生活

ーーその後は、それぞれ慶應義塾大学(下山田)、早稲田大学(内山)のサッカー部へと進学し、海外でのプレーも経験しています。お互いに意識はしていたのですか

下山田:
私は慶應に進んで、だいぶ人としての考え方が変わったというか、そもそも考える時間がものすごく多かった4年間でしたね。
個人として内山にライバル意識を持ったことはなかったのですが、やはり対早稲田となると、意識はしていたと思います。
しかも、早稲田は全国選りすぐりのトップオブトップで、慶應は経験者半分初心者半分というある意味両極端のチームが早慶戦で対戦しなければならない。
そういう意味では慶應側はかなり気合が入っていましたね。2年生の時に引き分けだった時は「ざまーみろ!」って思ってました(笑)。

 

内山:
本当に2年の時は早稲田側は「本当にやばいぞ」っていう雰囲気でしたね。日本一を目指しているのに、慶應と引き分けなんて足踏みしてる場合ではないというか。

 

ーー大学4年間を終え、それぞれ海外へ

内山:
私は大学4年生の時に足首の手術をしたこともあり、サッカー以外のことにも目を向けてみたいなと思い就職活動をしてみました。しかし、気がつくとスポーツ関連の企業ばかり受けていて、どこに行ってもサッカーの話しかしていない自分がいて、周りからも「やっぱりサッカーが好きなんだね」と言われて。
そこでやっぱりサッカーやりたい!と思いサッカー選手としての道を探しはじめました。ただ、当時の日本の女子サッカーではプロリーグはなく、ほとんどの選手が平日の日中は働きながらサッカーをする環境で、なかなか難しいなと思っていたところで、プロとしてプレーできる可能性のある海外という選択肢にたどり着きました。大学の先輩たちが海外でプレーしていたこともあり、色々話を聞けたことも大きかったです。最終的には、当時知り合いも日本人もいないイタリアに行くことを決めました。

 

下山田:
私は、就職活動をして会社に入って指示に従う、という世界が本当に嫌だったことがあり、サッカーを仕事にしていくしかないという気持ちがありました。
一方で、なでしこリーグで生活のためにアルバイトをしながらサッカー選手としてプレーするという環境も自分の思い描くキャリアではなかったんです。なので、しっかりとお金をもらってサッカーができる海外に行こうと決めました。
そこから代理人を通して、ドイツのクラブに行き着き、加入することになりました。

 

ーー海外生活はどうでしたか

内山:
総じてとっても楽しかったですが、辛いこともたくさんありましたね。クラブの所有する大きな家に、4ヶ国の海外籍選手で住んでいたのですが、全然価値観が合わなかったです。水回りが汚いとか(笑)。
あとは、サッカー面でも感情表現だったり意思疎通だったりが最初の頃は全然できなくて苦労しました。思っていることが伝えられない、もっとできると感じているのに、それを表現できないモヤモヤがありました。

 

下山田:
サッカー面ではスタメンで使ってもらっていたこともあり、監督から信頼を得ていたかなと思います。周りから見たら海外での2年間は良かったと思われてるかなと。
でもよく考えると苦しい2年間でした。まず言葉が喋れないこと。それを人のせいにしていた自分がいて、どんどん精神的に落ち込んでいきました。監督にプレーは気に入られていたので試合には出れる。周りからは、突然入ってきたアジア人がなんで出てるの?って思われていたはずです。コミニケーションも取らずにドイツ人は冷たいと自分で勝手に決めつけて負のループに入ってしまってました。
チームメイトに嫌われた時期もありましたが、最終的には受け入れてもらえて、今となっては行って良かったと思っています。1年で諦めて帰ってこなくて良かったです。

 

「普通はこうあるべきをなくす」ためのRebolt inc. 設立

ーーそしてレボルト立ち上げに向け、2人が再会することになったんですね

内山:
一旦、イタリアから日本に帰国するときに、次に何をしようかと考えていました。その時に下山田とも話す機会があり、スポーツという軸はぶらさずに、抽象的ですが「スポーツ界の当たり前を壊していこう」と考えてまずは任意団体を作ることになり、最終的には、覚悟を持って事業を行っていくために法人化をすることになりました。
具体的に「この事業で稼ぐぞ」というのはなかったです(笑)。

 

下山田:
本当に勢いだったなと思います。会社という「箱」があれば何でもできると思っていました。
個人的なエピソードですが、海外から一時帰国した時に元チームメイトのお父さんから「まだ親のお金を使って海外でサッカーやってるんだね」と言われたことがとても悔しくて。ドイツでプロサッカー選手としてお金をもらいながら自立して生活しているのに、そういったことは全然知られていないんだなと。同じ「海外でサッカーをプレーしている」でも男子と女子でこれだけ捉えられ方が違うのかと驚愕しました。

そんな時に、イタリアにいた内山から「チーム辞めたいのだけどこれからどうしようか悩んでる」と連絡をもらって、ドイツにきてくれたんです。
そこで色々と話して、その後もメッセージで色々とやりとりをして同じ方向に進むようになりました。

 

ーーそこから具体的にどのようなことをやってきたのですか

内山:
何からはじめるのがベストなのかを模索していたので、日本代表経験のある女子サッカー選手をはじめ、他競技のアスリートをお呼びして、どんなことをやったらいいのかの会議をしていました。

 

下山田:
結果として、みんなで話し合って「どうしよう」と言ってるだけだと何も変わらないし、何か一つ事業として見せられるものがないといけない。そうなるとお金も必要だし人も必要になってくるので、しっかり箱として会社を作ろうという流れになりました。

そんな中、SNSでフェムテック製品が目に留まり、月経時にも履くことができる吸水ショーツを見て、アスリートも生理用品には悩んでるんじゃないかと。私たちが製品を作りながらそういったアスリートの悩みや考え方を発信するだけでも十分事業にもなるし、アスリートに一つの解決策を示せるんじゃないかと思い、吸収型ボクサーパンツ「OPT」の第一弾商品である吸収型ボクサーパンツのプロジェクトをスタートしました。

 

内山:
製造してくれる場所からまず探さなければいけなくて。アイディアはあるけど、作り方はわからないという状態で、かなり大変でした。

 

ーーOPTの第一弾商品である吸収型ボクサーパンツのプロジェクトを通じて伝えたかったことと、なぜこの渋谷の街で取り組んでいるのかを教えてください

下山田:
少し話が戻るのですが、アスリート同士で話し合っても「何をやったらいいんだろう」「アスリートの価値ってなんだろう」で止まってしまう。
一歩外に出て、サッカーやスポーツとは違う世界・業界から見たら新しい価値が見つかるかもしれない、組み合わせられる課題があるかもしれないということを認知してもらいたかったのが一番伝えたかったことです。
それが目に見えて、誰からもわかりやすい問題が生理だったのかなと思います。社会での問題とスポーツでの問題がリンクして生まれた製品だということが重要でした。

 

内山:
なぜ渋谷なのか、というところでいうと、埼玉から渋谷に遊びにきていた時に、若い人が多いとか、さまざまな化学反応が起きている、色々なものがミックスされて面白いものが生まれていく場所というイメージがなんとなくありました。
それが会社のイメージにもすごく合っているなと。Reboltでは「WAGAMAMAであれ」というメッセージを伝えているのですが、渋谷はまさに「我(わ)がまま」になれる場所だなと感じています。だから私は渋谷という街が好きです!!

 

 

ーー今後取り組んでいきたいことがあれば教えてください

内山:
OPTというブランドを通して「WAGAMAMAな人」を増やしていきたいと思っています。その手段として、現在動いているのはプロダクトの吸収型ボクサーパンツをはじめ、他のプロダクトも着々と開発を進めているところです。

現在、OPTは第1弾プロダクトのボクサーパンツのみの展開なので、パンツのブランドのように思われてしまっていますが、「誰もがWAGAMAMAであれる未来」の実現に向けて第2弾・第3弾のプロダクトの開発や、プロダクト以外にも新たなアクションの準備を同時進行で進めています。今後は、ノーノーマルブランドOPTを通して「誰もがWAGAMAMAであれる未来」を実現するための1つの手段としてボクサーパンツをはじめとするプロダクトが存在するということをしっかりと知ってもらえるようにしたいです。

そして、もう一つ動いている新たなプロジェクトとしてブランド「OPT」を拡張させた競技をしないスポーツクラブ「OPT UNITED*」という取り組みをスタートさせます。
これはOPTの思想の伝達を加速させ、その思想にに共感してくださった皆さんと共創・団結の場が必要だなと感じ発足を決めました。OPT UNITEDでは、女性スポーツ界のアスリートはもちろんのこと、スポーツのチカラを本気で信じる多種多様なメンバーが共に団結し、女性スポーツ界と社会にリンクする「普通はこうあるべき」をなくす、ソーシャルアクションを仕掛けていきます。

 

*「OPT UNITED」は5月27日に正式リリースされました

 

OPTは6月24日(金)から6月30日(木)までの1週間、渋谷モディ4Fのイベントスペースにて、初めてとなるPOP UPイベント「OPT CLUB HOUSE」を開催します。
当日は、記事内でもお話いただいた吸収型ボクサーパンツの展示販売や、新作プロダクトの展示を行っています。期間中、下山田さん、内山さんも会場にいらっしゃるとのこと。ぜひ、足を運んでみてくださいね。

 

◾️下山田志帆 略歴

1994年生まれ、茨城県出身。現役女子サッカー選手。慶應義塾大学卒業後、ドイツで2シーズンプレー。同性のパートナーがいることを公表している。「普通はこうあるべき」をなくし、1人ひとりの個性が肯定される社会を目指し株式会社Reboltを起業。
Forbes UNDER 30 JAPAN 2021選出。

 

◾️内山穂南 略歴

1994年生まれ、埼玉県出身。9歳からサッカーを始め、十文字高等学校サッカー部、早稲田大学ア式蹴球部女子部に所属。大学卒業後、単身イタリアへ。プロサッカー選手として1年半プレーする。イタリアでの生活を経て、日本に根強く存在する“普通はこうあるべき”に違和感を抱き、2019年に帰国後、下山田志帆と共に株式会社Rebolt を創業。サッカー指導やAEDの普及活動、民間発行のパートナーシップ証明書を展開するFamieeにもジョインし幅広く活動している。

 

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