
”大した不安が無いという不安”を覚えるくらい、やわらかな春うらら。
その日は原宿を散歩しながらドーナツを買った。僕は散歩と甘いものが大好きで、一度に味わえる時間は至福のひととき。自由な思考には糖分が欠かせない。スマホは必ずバッグかポケットにしまって、代わりに首からカメラを下げる。気になることがあったらカメラで撮っておいて、あとで調べればいい。道に迷ってもマップは開かない。迷ったり遠回りしたり、そういうのはむしろ一期一会のスパイス。帰ってからグーグルマップのログを見れば、どこを歩いたのかもしっかり分かる。そうやって散歩中はとにかく、両手を広げて自由に見て聞いて感じるだけでいい。
僕にとっての散歩というのは、一番ちょうどいい頭の回転数を得られる時間だ。散歩のスタートからゴールまで、同じルートを同じルールで歩く人はこの世界に一人も居ない。何も勝ちや負けが無い。成果主義と競争だらけの社会で、散歩と読書ほど自由で不自由な現実が他にあるだろうか。
あなたも勉強や仕事のタスク、単調な日常に煮詰まった時には、是非散歩をして「本来の自分のペース」を感じてほしい。きっと普段、私たちは誰しも急ぎすぎている。
相手が遅刻したとき、なかなか信号が青にならないとき、電車が遅延したとき、そのたびに「おそい」なんてストレスを感じるのが現代人の当たり前になってしまった。私たちは一体、何をそんなに分刻みで急いでいるんだろう?
だって数秒や数分、たった数日程度の遅れですらイライラしてしまうほど心の余裕が無いなんて、ここ何十年かのうちに蔓延した現代病と呼んでいいんじゃないだろうか。イライラや怒りというものは、余裕の無さと焦りの中に生まれるもの。日々当たり前になってしまった焦りという病の中で一日中動いて、ベッドで強制シャットダウンして、また目覚ましで起きて慌ただしく朝の準備、学業や仕事へ。みんな頑張りすぎだって。とは言いつつ、そうした生活でなんとかお金を稼いでいるのは僕も同じで、遅刻や期限は怖くて仕方がない。時間を守るというのが社会の構造として出来上がっているのだから、社会でしか生きれない弱い私たちは素直に従うべきだろう。
でも自由時間が全くないなんて人、そうそういないはず。もしかしたらあなたは、平日のゼロ百の乱高下にさらに娯楽を足し算したり、休日の寝坊で疲れを癒そうとしていないだろうか。休日だけ昼過ぎまで寝ても、大して疲れが取れたようには感じないはず。それは医学的にも証明されているそうで、更に言えば何かに集中すればするほど、脳の動きは限定的になってしまう。だからある程度の集中というのはむしろ、脳が楽をしている状態だ。例えば暇な時にふとスマホを出すのは、ある程度の集中が一番楽だから。私たちは日頃頭を使って鍛えた気になっているけれど、実はストレスで精神が疲れているだけ。動かさないと肩や腰が凝ってしまうのに似て、脳もじっと集中していると逆に凝り固まって疲れてしまう。だからタスクに娯楽を足し算してばかりの日常から少し引き算して、ぼーっと散歩をしたり読書をすると、脳全体が非常に活発に動くようになる。そうやって引き算で脳のスペースを広げてあげることが、若々しい脳の維持には大切だ。大人のほうが難しいことを考えているのに、子供のほうがずっと想像力豊かだったりするのはこうした理由も大きい。とりあえず今は、僕と散歩でもしているつもりでことばの道を歩いてみてはいかが? もしかしたら、読書と散歩の欲張りセットになるかもしれない。
さて、この日の散歩でまずぼんやりと考えたのは、サムネイルにもある道ばたの小さい花について。原宿駅から表参道を下って旧渋谷川遊歩道路という通りに入ると、急に静かになって時間がゆっくりに感じられる。自分がいつの間にか早足になっていることに気づく。もっと呼吸をゆっくり、足をゆっくり、マイペースを取り戻す。その道中で見つけたのが、この制服姿の青春って雰囲気の花。だって学ランやセーラー服によく似合いそうだもの。例えばネモフィラは明るいちっちゃな女の子みたいだし、白いスイセンは静かなお姉さんっぽい。でもスイセンに例えたくなる男性がいたら、きっと素敵だよなぁなんて僕は思う。
まぁ花の名前なんてそうそう言い当てられるわけもなく、自分だったらどんな名前をつけようかなんて考えて先へ。あの花は、はるうららとか、そんな名前が似合いそうな花だと思う。競走馬みたいだけど。そう言えば代々木公園の原宿駅裏手にも馬がいて、乗馬体験なんかもできるらしい。うららか、うるわしい、ああ日本語って本当に柔らかくてあたたかい。もしかして「うらら」の三文字だけで春の季語だったりするのかな。
(後日調べたところ、『うらうら』『うららか』『うらら』は春の季語だそう。)
これを英語にすると、ビューティフルスプリングとかだろうか。雰囲気が固いなぁ。意味は通じてもこの「はるうらら」の雰囲気はきっと、なかなか外国人には伝わらない。外国人に伝わりにくいと言えば、海外の旅行者には現代的なビル群に点在する寺社のコントラストはどんなふうに見えるんだろう。まだまだインバウンド向けに伝えきれていない日本の魅力、たくさんあるんだろうなぁ。
なんてことを考えつつ、たまに行き止まりに追い返されたりしながらいろんな道を見て回る。表参道から渋谷駅あたりまでの細道はいくつもあるけれど、どの道にも素敵なお店が並んでいて目が楽しい。穏田神社の桜もすっかり色を変え、ゆっくり夏へ向かう若緑はなぜだか少しさみしい。けれど、それもまたきれい。それぞれの道にはそれぞれの雰囲気や匂いみたいなものがあって、ふと風向きが変わって音が消えると僕は、心がちくりと痛くなる。これといった不安や急ぐことが何もないのが、ふと不安になる。胸が空っぽでスースーするのに、一方でとても重く感じる。焦り過ぎという現代病の賞状なのかもしれないけれど、特に春はいっつもそういう時期だ。本当に僕は、弱く不器用なものだと思う。不安の無い不安は確かにあるけれど、喜びの無い喜びってのはあるんだろうか。なんてこと無い平和が一番尊いというのは分かるけれど、そう簡単なものでもない。こんなに散歩は自由なのに、遅いしスマホ注視できないし、時折それがひどく不自由にも思えてくる。ドーナツの穴には何もないけれど、ドーナツがなければその何もない穴すらない。それを何もないからないと思うか、あるからこそないと思うか、何もないからこそ全てがあると思うか……
なんて、そうやって敢えて不正解の中で迷うのはきっと、なかなかに自由なんだろうな。じゃあ散歩は自由だからこそ不自由なのか、いや人は不自由の中の選択可能性を自由と呼びたがっているのかもしれない。そもそも全ては因果の結果でしかなくて、自由意志なんてものすら幻想なのかもしれない。だとしたら、自由も不自由も、幸も不幸も、結局感情次第、なんて、嫌だなぁ。一番難しいじゃないか感情の制御なんて……
ああまた、狭く狭く迷ってしまうところだった。ドーナツの穴じゃなくてドーナツを見るように、視野を浅く、そして広く保とう。これを忘れると人は簡単に心を病んでしまうものだから。
僕の散歩中の思考なんて、このくらい自由で適当で無駄っぽい。僕は何も考えないというのがすこぶる下手で、気を抜くとすぐにちっぽけな空虚を掘り進めてしまう焦りを抱えている。でも僕は別に、大雑把で強くいることが正解だなんて思わない。弱々しいとか根暗だと誰かが思うのも、また自由。他人など変えようがないのだから、せめて自分の守りたい自分を探すだけで充分すぎると思う。自分が好きな服を自分に着せて自分好みのお化粧をするとか、そんな感じで生きられれば良いんじゃないかな。自分らしさを表に出したらうまくいかない相手なら、着飾って愛想笑いしてまで合わせるなんて自分が勿体ない。でも自分を変えてまで仲良くなりたい相手ってのは、素敵だよね。
僕が守りたいのは、不自由の中の選択肢は喜びも悲しみもめいっぱい楽しむって事だけ。鬱気になんか、負けてたまるか。そんな過程で浮かんだ疑問や思いついた言葉は、絶対にその場ではメモに残さない。調べない。ただ思うだけ。だって書いてしまったら、そこで感情が終わってしまうから。
ただふわっと、時にちくりと、モヤモヤのまま持っておく。家に持ち帰ってから、ゆっくりと日記やこうした文章に起こす。
感情を動かすことは、決してリスクやコストなんかじゃない。結論を急がないとムズムズする現代病を私たちは抱えているけれど、そんな自分を許してあげられるような余裕が、のんびりと歩くうちに身についたらいいと思う。そう、これだ。自分に対しての余裕、これが私たちにはもっと必要なんだと思う。他者への優しさは、己の余裕から生まれるのだから。でも嫌な記憶や体験談は誰であれいつまでも持っていたくない。不自由な葛藤は早く捨てて自由に前を向きたい。ああ、だから気持ちの整理のために日記を付ける人がいるのか。僕の執筆もそういう面が結構ある気がする。お金を稼ぐためじゃないからこそ、こうして自由につれづれなるままに言葉を紡げる。感情とは、こうやって手懐けていくのか。なるほどな。
この、記憶や知識の点と点が線でつながる「なるほどな」が脳にいい刺激を与えてくれる。見える景色は一緒でも、見えている景色が、確かに変わっていく。何かを変えようとするのは心が嫌がるから怖いけれど、自由に歩いていればいつの間にか変化は起こっているもの。今まで無関係だった記憶の点と点が線になって繋がり、線は織り重なって編み込まれて、心をあたためる服や包帯になる。そうやって自由に遠回りして考えることすらも、現代では「ググれカス」なんてスラングで一蹴されてしまう。四月から僕の職場にも新入社員が入ってきて色々教えているけれど、僕は人の質問を絶対に突き返さない人間でいたいと常々思っている。相手が何度同じ質問や間違えを繰り返しても、自分の中に怒りが湧くかどうかは自分次第だから。時には強めの言葉でしっかり伝えることも必要だけれど、新人さんにはまず仕事内容以上に「焦らず優しく、落ち着いて向き合う大切さ」を覚えてほしい。親が厳しすぎると子供は誤魔化しと嘘を覚えるようになるってこと、僕は身を持って体験してきた。先輩後輩の間にも似たようなことが言えるんじゃないかと思う。まずは何よりも、自分のペースを知るところから。心が自由に動ければ、たくさん質問も湧いてくる。そんな新しく入ってきた視点から、後輩よりもむしろ僕のほうが学ばされることもいっぱいある。
散歩というのは、そうした自分のペースを独りでに知ることが出来るかけがえのない時間だ。一見遅くて単調で不自由な行為だけれど、頭が一番ちょうどよく回る早さでマイペースを知れるはず。あなたもたまにはスマホをしまって、自分の素のペースを知ることから自由を探してみてはどうだろう。きっと普段、私たちは少し早めに歩いているはずだから。もう少し肩の力を抜いて、ゆっくり歩いていいんだよ。心の健康よりも急がなきゃいけないようなこと、そうそうないはず。空き時間を作るのは甘えとか悪いことのように思いがちだけれど、普段に余裕がなければ、誰かのために急いであげる時間だって作れない。そうそう使わないのに毎月保険代を払うみたいに、無駄に見える空き時間を作って心に支払おう。その積み立てた余裕は、必ずあなたの未来を良い方へ変えてくれる。
そう思いながら細い道を歩いていると、ランドセルを背負った小学生が笑いながら走り去っていった。こんな大都会にも学校があって、人々の暮らしがあるらしい。僕にとっては映画のセットみたいな夢の街でも、彼らにはふるさとの風景なのだろう。見えるものは一緒でも、きっと見えている景色は僕と全然違う。街に家があるなんて当然だけれど、ふとそれがとても不思議に思える。そしてきっと僕よりも、あの子供たちのほうがずっと頭全体をよく使っているはず。ああ小学生、社会的に見れば大人よりずっと不自由なのに、あれほど自由に笑うとは。
小学生と言えば、理科の授業は特になかなか答えを教えてくれなかった。必ずクラス内で複数の仮説を持ち寄って、「なぜそうなると思うか」を一人一人が考えてから、実験で事実を確認したはず。先生は答えを知っているのに教えてくれず、とっくに世界中が分かりきっている初歩的な物理法則をわざわざ再発見、再発明させられる。理科に限らず小学校の授業はしばしば、こうした「再発見、再発明」の連続だ。さっさと答えだけ教えてくれれば一分で終わるものを、わざわざ一時間近くかけてやらされる。これはつまり主体的、自発的に”探す”という訓練。これと似た言葉に”求める“があって、こちらは簡単な答えや解決ばかりを欲っする焦りから生まれやすい。自由は他者に“求める”のではなく、自分の手で”探す“ことを続けなければ。でも、それがなかなか難しい。学年を重ねるにつれ、答えや点数や順位を求めてばかりの授業になってしまう。あまりに大きく遠く抽象的なゴールを求めて、何を探していったらいいのかわからなくなってしまう。散歩のようにぼんやり何かを探す暇など、凄まじい成長の中ではなかなか手に入らない。
答えを求めよと言われる一方で、一緒に探そうと歩み寄ってもらえたのは小学生まで。順位や偏差値を上げなさい、良い大学へ行きなさい、良い会社に入りなさい。いつしかそんな言葉ばかりになって、大人になることを急かされて、正解のない人生にどんどん正解を作らされてしまう。だから受験のための勉強というのはたいへんにせっかちで、学生さんは本当に難儀なものだと思う。その上就職したら、きついスーツに身を包んで繰り返しの毎日になってしまうかもしれない。そんなにも効率化を求めた先で視野を狭められて、どうか自分という個性を失くしてしまわないでほしい。
目指す目標の真ん中だけを見据えても、ドーナツの穴のように味がない。もっとゆっくり見渡せば、競争の中では作れないおいしい成長というのもたくさんあるはず。さっきすれ違った小学生たちも、あの笑顔をいつまでも忘れないでほしいと思った。不合格は、不正解なんかじゃない。自分の機嫌は自分でしか取れないのだから、鏡か写真でしか見えない自分、そしてどうやっても自分自身ですら見えない心を、どうか大切に。まずは必要な栄養をしっかり取ること、そして勉強やゲームや動画ばかりではなく、たまにでいいから読書や散歩などでマイペースというものを思い出してほしい。ゲームや動画では自動的に情報が過ぎ去ってしまうけれど、読書や散歩は好きな時に好きなように、好きなだけ自由に歩ける。僕も産まれた時にはもう家庭にパソコンがあったし、八歳の頃にはスマホがあった。夜中こっそり親のパソコンでアニメを見て、高校生の頃はかなりのゲーマーだった。あの頃は僕だって、本なんか全然読まなかった。でも二十六歳になると、「あのゲームに費やした何百時間はなんだったんだろう。楽しかったからぜんぜん良いけれど、たまには違うこともしたほうがよかったな」って、ふと思ってしまう。あの学生の日々は、ゲームと勉強だけの毎日だった気がしてならない。
勉強も、受験が終わって大人になったら忘れてしまっても構わないものなんだと、最近思うようになった。勉強というのは決して知識を一生分溜め込むためのインストールタイムではなくて、頭の動かし方と向き合う若き訓練の時間。勉強が大切だというのは、思いっきり頭を動かす訓練に打ち込めるからだ。何を学んだか全て忘れてしまっても、学んだ時間はいつだってあなたを支えてくれる。それに、忘れたつもりでも意外と人は忘れないから。
免許証をセリヌンティウスにしてATMにダッシュしたとか言って通じるのが、日本人の義務教育の素晴らしいところ。「財布の中身も把握してないなんて、つまり君はそういうやつなんだな」とか返してもらえたら最高に楽しい。でも先日、社内で勝手に使っていた同僚の席を返しながら「あたためておきました」と言ったところ、日本史ネタが通じなかったのはちょっぴりさみしかった。
そんな具合に、人は完璧じゃないからこそ何歳になったって学べる。誰でも、部下や歳下や子供に学べることがきっとたくさんあるはず。探し求める行為には、学歴も年齢も性別も関係ない。そうした自由な思考こそがAIでは作れない人の多様性というものを形作っていくんじゃないかと、僕は期待したい。
では先ほどの理科の話に絡めて、ここで一つ簡単な質問を出そう。これだけ一瞬、大真面目に思い浮かべてみてほしい。
「石灰水に二酸化炭素を溶かしたらどうなったか、覚えていますか? 」
……さあ、あなたは何を思い浮かべるだろう。もしフラスコや試験管の中のブクブクを思い浮かべられたのなら、それが“探す”という経験を伴った知識。実際に試して試験管の中に答えを探した、その遥か前の経験を脳内で探したことになる。一方、石灰水と二酸化炭素というワードだけを見て「白くなる」と言語化された答えが出てきたなら、あなたの脳はきっと急ぎすぎている。「どうなったか覚えていますか?」であって、”答えを求めよ“なんて書いたわけじゃない。どうかのんびり、この記事を読み終わったらティータイムや散歩でもして休んでほしい。先を急いで求めてばかりでは、ゆっくり探せば見つかったはずの小さな砂金を見落としてしまう。ストローを口にくわえて息を吐いてブクブクしたことを思い出せたなら、そう言えば呼気には二酸化炭素が含まれているんだよなぁとか、そういう普段は考えもしない事まで思い出せる。脳内検索ではなく、脳内図書館を見て歩くみたいに自由に行こう。私たちはAIではなく、遠回りが最短になりえるのが人間の面白いところだ。
そんな具合に、探すのと求めるのでは脳の自由度が桁違い。頭をのびのび使って日々を過ごしてみるだけで、私たちの豊かな思考回路や創造性は一気に立体感を増すはず。会議中の鶴の一声や輝くアイデアと言うのは、そうした自由な思考からこそ生まれる。数字ばかりを追いかけている人の視野が狭くなっていくのはきっと、あなたも覚えがあるはず。お酒も酔いを求めて溺れるのではなく、その味わいの深さを探して、ゆっくりと味わったほうがきっとおいしい。そうしたものが“求める”と“探す”の違い。脳が自由な状態でゆっくり考えることの大切さを、スマホやパソコンは簡単に奪ってしまう。人を豊かにするはずのネット社会で、私たちが百年前よりずっと忙しくなっているなんて、変だと思わないだろうか。人間の何千倍もの処理速度がある相棒なのに、忙しさに対しての利益率はむしろ百年前と全然変わらないか、むしろ低下してはいないだろうか。私たちが見落としている人間の可能性は、そうした「無駄」だとか「勿体ない」と切り捨てた時間にも多分に含まれているはず。時代や世界はどんどん変わっても、人間自体は何千年も昔から変わってやしないのだから。
AIやネット検索には確かに、膨大な知識はある。けれど何も経験を持っていない。僕含め、現代の若者を「デジタルネイティブ」なんて言い方もするけれど、私たちは往々にしてデータベースから答えだけ引っこ抜いて分かった気になっている。デジタル技術は人間を豊かにするために、人間に似せて作られたはず。なのに、私たちは逆に段々デジタルに似てきてやしないだろうか。多くの人は時間と人間らしさを天秤にかけて、時間の優位性を取ってばかりいる。日々の疑問もヘイシリとかオッケーグーグルなんて呪文一つで話が終わってしまったらそこには、あなたがあなたである理由も必要も無い。そんなの、さみしいじゃない。もっと心の手を、広げよう。
そうして散歩も終盤、いよいよ渋谷駅に差し掛かるとカップルが前から歩いてきた。手を繋いでいくつかのショッパーを持ちながら、のんびりと会話をしている。
「これ、なんてお花かなぁ」
「さーね。勝手に好きな名前つけりゃいいじゃん」
多分、女性が携えた花柄のバッグの話だろうと思う。僕はこういう「一見何も生まない無駄な会話」と思えるやり取りがとても尊く見える。恋愛や恋愛作品などでワクワク出来るのは、幼少期に置いてきてしまった「無駄の楽しみ方」を思い出せるからじゃないかな。こういうふとした体験から小説をアウトプットするのが、僕の人生の趣味だ。通りすがりに聞いた話すら、物語のキーアイテムにだってできるはず。ふとすれ違ったあの二人も、数カ月後や数年後には夜景を眺めながらこんな話をするかもしれない。
「出会った頃にさ、一緒に花の名前を考えたじゃない。あとで調べたらね、カタバミって言うらしいの。花言葉は、あなたと共に。そして、母の優しさ。ねえ、二人の花に、あなたが言った通り好きな名前をつけようよ」
なんて、こんな感じでふと聞こえた会話が第一話になって、クライマックスが思い浮かぶ。自然と顔がほころぶ。僕にとっては、執筆は頭の散歩みたいなもの。生活や仕事に直結しないことを思う、考える、そんな時間はとても素敵な自由だ。
さて、そろそろまとめよう。
あなたがあなたである理由は、きっと普段「無駄」と切り捨てがちなところに多くある。無駄を無駄と切り捨ててしまうような焦りこそが、数々の無駄を生んでしまう。「急がば回れ」とは、よく言ったものだ。
冒頭写真の花については、後で調べたら丁子草と言うらしい。確かにスパイスの丁子に似た形で、とてもきれいな花だと思う。意外と渋谷の道ばたにもたくさん咲いているのだけれど、あなたはお気づきだったろうか。
ネット検索はこうやって、花や星の名前を知って世界を明るく見るために使おう。星よりも明るく花よりも鮮やかだからといって画面を見っぱなしになると、目が眩しさに慣れて色々なものを見落としてしまう。
オリジナリティやクリエイティビティは、そうした自由で楽な無駄から生まれて咲くもの。効率的で実用的なアスファルトには花は咲かないのだから、どうか心を、固く舗装してしまわないように。柔らかく、ゆっくりと芽吹きを楽しもう。そんなに急いで完璧を求めて頑張らなくても、AIじゃないんだから大丈夫。AIにドーナツの味は分からない。私たちは所詮人間、されど人間だ。うまく、散歩みたいにのんびり付き合っていこう。
そんなところで、今回の散歩は終わり。この記事であなたは、一万文字ほどの読書散歩をしたことになる。でも意外と時間経っていないでしょう。お付き合い、ありがとう。次回はもう少し短くまとめよう。
では、また次回。
ドーナツとベーグルの違いってなんだと思う?
続く