シダックス総合研究所が事務局を務めるSDGs研究所で特任研究員をされている片岡暁孝さん。渋谷を舞台に社会課題解決に向けてさまざまな活動をされています。
そのご経歴はなんとも多彩。祖父が十三代目片岡仁左衛門、叔父が十五代目片岡仁左衛門という歌舞伎の世界に生まれ、ご自身も数々の俳優経験があります。
そんな片岡さんに渋谷での活動のきっかけや、これからの渋谷との関わりについてお聞きしました。
一度日本を離れて日本の文化を再認識
ーー東京のご出身とのことですが、小さい頃から渋谷にはよく来られていたんですか?
片岡さん(以下敬称略):
実は通っていたインターナショナルスクールの中学校が渋谷の神山あたりにあったので、センター街が通学路だったんです。自宅のある世田谷から電車で渋谷に来てセンター街を通って通ってました。もちろん放課後は、センター街で遊んで、ちょっと悪さもしてました笑
なので青春時代はセンター街でした。父の会社も富ヶ谷にあったので、渋谷は小さい頃から身近な街でした。
ーー渋谷との付き合いは長いんですね。その後、アメリカに留学されたんですね。
片岡:
はい。アメリカに留学して約9年間アメリカにいました。周りに日本人が一人もいないバーモント州の高校に入学したものの、その高校が2ヶ月で廃校になって、ペンシルベニアの高校に転校しました。2年後、ハリウッドのキャスティングディレクターからちょっと遊びに来ないかと言われたのがきっかけで、カルフォルニアに引っ越し。ビバリーヒルズ・ハイスクールで演劇を専攻し、さらにサンタモニカ・カレッジでも演劇を専攻して卒業しました。
同級生に、ロミオとジュリエットのジュリエット役のオリヴィア・ハッセーの息子がいて、彼の芝居に感化されました。
その後、日米合作のハリウッド映画「THE HUNTED」のオーディションを受けてみたら受かったので、休学してカナダで撮影したりしました。大学卒業後に日本に戻って、日本で俳優の仕事をしました。
ーーアメリカでの生活ではどんなことを感じましたか?
片岡:
実は、日本にいる時は、自分が日本の伝統文化である歌舞伎の世界で育って、人と違う世界にいることに恥ずかしいという気持ちがあったんです。そんな中、アメリカで、いろんな国の人たちとルームメートとして暮らす中で感じたことは、自国の文化に誇りを持っていて、さらに日本の文化にも関心を持ってくれていることでした。
その経験から、日本で役者として活動していく中で、日本の伝統文化を発信できるような仕事ができないかと思うようになりました。
40歳の頃に転機があり、演じる側からプロデュースをする仕事へと転換していきました。
プロデュースという形で日本の伝統文化を発信するような機会を探していたところ、渋谷区文化総合センター大和田で発表するきっかけをいただきました。
片岡:
その後、シダックスが掲げていた、渋谷をアカデミータウンとして学びの街にしていきたいというビジョン実現するために、2015年にシダックスに入社し、アカデミー事業を担当することになりました。
さらに、区内に拠点を置く企業や大学等と区が協働して地域の社会的課題を解決していくS-SAP(シブヤ・ソーシャル・アクション・パートナー)協定というものがあって、そこのシダックスとしての窓口をしました。
気づいたら、渋谷の社会課題解決のためのいろんな活動をしていて、渋谷公園通商店街振興組合の理事や、こどもテーブルなどの活動をしています。
仕事をする上で大切にしていること
ーー渋谷を一旦離れてアメリカに行って、今はまた渋谷で活動をされている。渋谷とは切っても切れない関係ですね。いろんな仕事をされていらっしゃいますが、片岡さんの中で大切にしていることはありますか?
片岡:
渋谷で活動するのが必然だったのかもしれないですね。運命がそのように進んでいったという感じですね。渋谷ではいろんな人をつなげる役目をしていきました。
どんな仕事をするかも大事ですが、誰と仕事をするのかということを大切にしていますね。
仕事をする相手と共感するところがないと、仕事として成り立たないと思うんですよね。好きな人とやる仕事は楽しいですよね。
ーーアメリカで長く暮らして、多様性を感じたと思いますが、渋谷にいる人とはどういう人付き合いをこころがけているのですか?
片岡:
渋谷って本当にいろんな人がいますよね。リアルに人と接することで、その人の人柄がわかると思うんです。役者をやっていた時に勉強したのは、観察すること。いろんな人と接する中でその相手のことを観察していました。人と会って話すことで、フィーリングってわかりますよね。
ーー役者からプロデューサーになって、その辺りの思いは変わってきましたか?
片岡:
そうですね。役者の時は自分をうまく見せて、いい芝居をしようと、自分のことを一番に考えていた気がします、プロデューサーになったときに、お客さん側に立って考えるようになりました。
さらに40歳過ぎてはじめて企業に入って、大きく考え方は変わりました。これまで会社で勤めたことがなかったので初めは不安でしたが、環境が変わると見方が変わるんです。
新しい世界に飛び込む勇気というのは必ず人生の中で必要だと思っています。
今後はこのような経験をもとに、アーティストやスポーツ選手にとって、新しい扉を開けられるような機会を提供していきたいと思っています。セカンドキャリアを支援するようなことをしていきたいと思っています。
新しい時代の渋谷をつくっていく
ーーいろんな立場で渋谷で活動をされていますが、片岡さんにとっての渋谷の街の印象をお聞かせください
片岡:
渋谷に関しては、ブランド力がある街。
そのブランド力をどうやって培ってきたんだろうと紐解いていくと、街の力や人の力や企業の力だと思うんです。渋谷に関わる全ての人が渋谷のブランドを高めているんだろうと思います。
ーーいろんな立場の人たちが関わって渋谷という街ができているということですね。
片岡:
渋谷というのはチャレンジができる場だと思うんです。
何かやろうと思うと、いろんな仲間が賛同してくれて力を貸してくれる。そういう雰囲気があると思うんです。チャレンジすると新しい発見があります。街の人たちや企業の人たちがみんな自分たちの街が好きだと思うんです。
シビックプライドの高さをすごく感じますね。嫌々仕事をしている人が少ないんじゃないですか。その仕組みを作った渋谷区はすごいなと思います。
ーー若い時に渋谷で遊んでいた人が、良い年の取り方をして、また違う立場、視点で渋谷に関わって良い街を作っているんだなって感じますね。
片岡:
もっと若い人の意見を取り上げようという動きも出ていますよね。若い人のチャレンジを大人も応援する動きがあるので、素敵な街ですよね。
ーーいろんな立場の人たちが関わって渋谷という街ができているということですね。今後渋谷の街はどうなっていくのか、またどうなってほしいと思いますか?
片岡:
今後は、まちづくりにゴールってないと思うんですよね。そこの時代時代の人たちの文化や考え方が変換していくと思うので、未来の渋谷も変化し続ける街なんだと思うんですよね。その時代の人たちがまた新しい渋谷を作っていくんだと思います。
人と人が楽しくつながっていろんなイノベーションが起こしやすい街になってもらいたいなって思いますね。つまり今の方向性を変えないでほしいですね。
いくら街が新しくなっても、そこは変わらないでほしい。ちゃんと自分たちがやりたいことが実現できる街になってほしいです。
◾️片岡暁孝 略歴
世田谷生まれ。祖父が13代目片岡仁左衛門。今の15代目仁左衛門は、叔父にあたる。
中学から東京のインターナショナル・スクール(Japan International School)に入学。
3年後(1988年)に渡米。ペンシルヴァニアに2年、カルフォルニアに7年。計9年間在米する。
1992年ビバリーヒルズ・ハイスクール(演劇専攻)を卒業。
1997年サンタモニカ・カレッジ(演劇専攻)をオナーズで卒業。
帰国後、1999年に日本での初舞台「友情」に出演。三越劇場の「明治一代女」で初めて座長の相手役として準主役を務める。その後も新宿のシアターアプル「アマテラス」で準主役を務め、様々なお芝居にも出演する。
テレビでは、年末時代劇「河井継之助」、NHK「さくら」、「竜馬がゆく」、「水戸黄門」やその他のテレビドラマにも出演
2014年渋谷区共催によるプロデュース公演を開催や落語や講談、新内、狂言など日本伝統文化のプログラムを提供。
2015年シダックス(株)に入社(シダックス・アカデミー事業を担当)
その後、渋谷クロスFMシダックス・アカデミーアワーのパーソナリティや中伊豆ラジオのパーソナリティを務める。
渋谷公園通商店街振興組合の理事。シダックスにおけるS-SAP担当、こどもテーブルや三枝成彰氏と「渋谷こどもオペラ」、Kids Experience Designer植野真由子氏と「こどもあそびまっぷ」など渋谷区で子供向けたプログラムを提供。
◾️シダックス株式会社 会社概要
1959年、東京都調布市の社員食堂で開始した食事提供業務を祖
従業員約40,000名を有する総合サービス企業。
全国の企業、学校、保育園・幼稚園、病院、高齢者施設等に1日7
企業・官公庁所有の役員車・公用車等約3,500台の車両運行サ
自治体の公共施設(学校給食、学童保育、観光施設、図書館等)の